認識の自由性

他の動物と比べた場合、人間の認識の最大の特徴はその自由性にある。動物の認識のあり方は、本能と個体経験によって限界づけられている。つまり、

  • 本能の強い制約を受け、生存のために直接必要でない認識はできるだけ持たないようになっている(高等哺乳類の場合は、条件次第ではその制約がかなり緩むこともある)
  • 個体が直接経験した範囲内の事柄しか記憶していない

ということである。

これに対して、人間の認識は、言わば、世界に向かって開かれている。もちろん本能に影響される部分もないわけではないが、基本的欲求(食欲・性欲・睡眠欲など)を初めとして、認識の基底部分で働くのみであり、具体的な認識のあり方を強く制約するものではないし、場合によっては、認識の働きによって押さえこまれてしまうこともあるくらいである。故に、人間は、生存のための直接的必要性に捉われることなく、様々なものに興味を持ち、認識の対象として注意を向け、記憶に刻みつける。また、その対象に働きかけ、その結果を更に観察しながら、対象の変化の仕方やその因果関係を調べてみようとしたりする。

また、人間は社会生活を営む中で、言語をはじめとする様々なコミュニケーション手段を発達させ、他人の認識を受け取りながら成長し生活することを常態化してきた。その結果、認識世界が個体経験の範囲を大きく超えた拡がりを持つようになったのである。直接見たり触ったりしたことのない事物のことをコミュニケーションを通じて“知る”ことができ、それを手助けとして自ら経験したことのない世界のあり方を思い描いて、自らの認識の地平を広げていくことができるようになったのである。

人間は、このように開かれた認識活動を持つようになったがゆえに、その認識世界の中は極めて複雑で、個性的で、無限と言ってもいいほどの多様性を備えるようになった。

概念と言語
概念とは、世界の事物を何らかの基準に従って分類(カテゴリー化)するという認識活動によって得られた特殊な認識である。もちろん、事物の分類を行なうのは人間に限ったことではない。他の動物であっても、分類の細かさに違いはあれ、何らかの仕方で自らを取り巻く環境の諸事物を分類し、その分類に従って反応しながら生活している。認識の進化の項で述べた「定型反応」はその最も原初的なものである。ただ、動物の場合は、認識が本能の制約下にあるため、生存に直接関係のない分類はほとんど行なわれない。
しかし、人間は、認識が本能の制約を大きく脱しているため、生存に直接関係あろうがなかろうが、事物を極めて細かく分類し、記憶する。動物では考えられないくらい多様な概念を構成しているのである。それが可能なのは、個々の概念に特定の音声形式を結びつけて記憶するシステムである言語というものを持つようになったからである。
言語は、多種多様な概念の記憶を助けるのみならず、人と人との間で概念のやり取りをすることを可能にした。言語は、人間が社会生活を営むようになり、そのコミュニケーションの手段として発達したものではあるが、これによって概念的認識のやり取りができるようになると、人は、自分で一から概念の集合を作っていくのではなく、社会的に確立された概念体系を言語の習得という形で受け継いでいくようになったのである。こうして、特定の言語共同体の中では、同じ概念、つまり同じ分類法が成員全体に受け継がれていくことになったのである。
また、概念・言語は、人間に事物をより深く本質的なレベルで分析・把握する手段をも提供することになった。「犬」「猫」「鳥」「魚」など、外見的類似性を持つ事物の分類法だけでなく、「動物」「植物」「生物」などといった抽象度の高い上位類が成立していることからもわかるように、多くの異なった事物に共通するある一面だけを取り上げて分類するという認識を可能にしたのである。これにより、外見上異なっている事物の背後に共通の性質を見つけて、それを一般化して捉えるという認識形態=科学的認識へと通じる扉が開かれることになったのである。
想像力の発展と宗教・科学
動物レベルでの認識は主に統合的外界像と個体経験の記憶想起で構成されるが、人間の場合、更に想像力が大きく発展することとなった。想像力とは、既存の外界情報や記憶情報を基にして、見たことのない物、経験したことのない事柄、言ったことのない場所などのあり方を外界像として思い描く能力である。過去に遭遇した事例やそこから抽出した一般的なパターンを基にして、大体こんな感じであろう、というような推測像を創り出すのである。また、他人から受け取った情報を基にして、自分なりの像を描いてみる場合もあるであろう。
想像力が発展すると、感覚的に捉える事ができない事物であっても認識の中に思い描くことができるようになる。幽霊・妖怪・妖精といった超自然的存在を思いついたり、まじない・呪術などのように、ある特定の行為が何らかの現象をもたらすという架空の因果関係を設定したりするのは、その自由な想像力の発露であると言える。しかも、そのような架空的存在の認識を多くの人々と共有することにより、それなりに実感を伴った存在として受け入れていくということも、近代以前はもちろんのこと、現在でも極めて一般的である。言うまでもなく、宗教的認識の起源がここにある。
ここでもう一つ重要なことは、想像力を駆使して架空の存在をでっちあげるその能力が、他方では、感覚的に捉えられる現象の背後に、直接には捉えることのできない事物の仕組を読み取る認識の働きにも通じているということである。なぜなら、地震・雷・台風・津波・大雨・洪水といった自然現象の背後に何らかの超自然的存在の働きを想像してみる、という認識作用がなければ、その仕組を科学的に解明してみようとする志向性そのものも生まれてこないからである。その意味では、つまり「現象の背後に、直接には捉えられない何らかの仕組を想定する」という意味では、宗教的認識と科学的認識は同根であると言えるであろう。