人間と社会

社会
「人間は社会的動物である」とは古代ギリシャの哲学者アリストテレス言葉であるが、この言葉は人間の本質をズバリ突いている。社会の中で生まれ育ち、社会を維持しながら生きていく(というか、それ以外のやり方では生きていくことができない)というのが人間の人間たる所以だからである。人間が生物・動物であるとともに、社会的存在であるという規定は、人間にかかわるいかなる問題を考察する際にも、外すことのできない重要なポイントである。しからば、社会とは何か、例えば動物の「群れ」とどう違うのか、というようなことが、当然、問題となってくる。
先に結論から述べておくなら、社会とは、労働の成果の共有・分配・交換を通じて結びついた集団のことである。多くの動物では、各個体は、餌などの自分にとって必要なものは自分で調達する。巣を作るに際しても、材料を探して来て組み上げるのは自分である。他の個体にお金を払ってやってもらうなどということはない。これに対して人間の場合、食べ物・衣服・住居・道具など必要なものをすべて自力で作り出して生活しているわけではない。これは最も原始的な生活をしている人々でさえそうである。社会の中の各個人が、それぞれの能力に応じて仕事を分担し、その成果を共有・分配・交換することで生活を成り立たせているのである。
人間以外の動物でも、群れを作って生活する動物の場合、ライオンやオオカミのように獲物をとるのに複数個体が協力してチームプレイを行なったり、とった獲物を集団で分け合ったりすることがあるし、また、サルの群れのように集団の中のリーダーの地位をめぐって権力闘争が起こるといったような、極めて“社会的”な現象が見られることもある。考えてみれば、人間も動物の一種として進化してきたわけですから、人間に見られる社会的な性格の一部が他の動物の中で見出されるとしても何らおかしなことではない。
しかし、動物の“社会的”行動は人間に比べれば極めて原初的・萌芽的なものでしかない。人間はそれを大きく越えて進化して来ており、人間社会では、進化史を通じて人間に至るまでに獲得されてきた諸特徴が大きく開花するとともに、経済・政治・文化・文明・学問・宗教・芸術のような、動物段階ではほとんど(或いは萌芽的にしか)存在しなかった活動が生活の主役となって躍り出てくる舞台となるのである。
共有認識と制度
社会は、人間どうしが物質的関係において結びついているのみならず、精神的にも結びついている集団である。そして、その精神的な結びつきは共有認識という形で実現される。社会の成員どうしが同じ認識を共有することで、互いを集団の仲間として認め合い、その中で多種多彩な秩序を創り出し、他の動物には見られなかったような種々の共同作業を実現することができるようになったのである。
またその過程で、多様な人間関係・役割関係を固定的な存在物として確立してきた。これらを制度という。制度は社会的存在物であるので、社会の諸成員が認識の共有を通じてその存在を承認し、それに従って行動することによって初めてその存在を維持することができる。例えば、政府・法律・権利・通貨などの社会的制度は、みんなが「ある」と思って行動するからこそ存在し得るものなのである。
分業
食糧獲得の方法の中に農業が登場し、食糧の安定供給ができるようになると、社会の中で食糧生産に従事しない者を多数養うことができるようになる。そうすると、その者たちは食糧生産以外の活動を専門的に行なうようになり、社会の中で本格的な分業が発生する。すなわち、社会の中で成員にそれぞれ固定的な役割が割り当てられ、その役割を果たすことで社会の中での生存を保証される、という仕組が制度として確立するのである。
政治
社会の中で分業が発達するということは、分業を行なっている諸成員間の調整を行ない、社会全体の動きを指導する者が必要とされるということでもある。なぜなら、各人がてんでばらばらに活動していたのでは、社会全体として分業をうまく続けていくことはできないからである。ここに、政治という活動の存在理由がある。そして、政治活動は、指導者が他の者に対して命令を発して行動させることができる関係、すなわち権力関係が制度として存在することを前提としている、ということを忘れてはならない。権力関係や権力機関ぬきで政治は存在し得ないのである。